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106号室<メッサー物語り>


「戦後の荒廃したドイツで、フェンド青年が追い求めた『夢の車』、それは…。」


ここではメッサーシュミットという車がどういった事情で、どのような人の手によって作られたのかを、英国のメッサーシュミットオーナーズクラブから出版されている書籍" The Story of the MESSERSCHMITT"から紹介したいと思います。(内容をより確実なものにする為に、Jens Kron著書の"messerschmitt Kabinenroller"も参考にさせて頂きました。)

(辞書をひきながらの下手な和訳ですので、間違いが多々あるかと思われます。徐々にアップしていきますので宜しくネ〜(^^;)

■The History of the Messerschmitt.


■フリッツ・フェンドの夢

第2次世界大戦のおかげで、ドイツのおもな産業はほとんど失われていまいました。もちろん航空機、船舶、戦車や銃器などの軍需産業も占領軍により完全に封鎖されていました。
自動車工業の再開さえも人々から危ぶまれていました。鉄鋼業の中心であったルール地方は広範囲にわたって損害をうけ、それに関連する多くの製造産業もことごとく破壊されていました。

『フリッツ・フェンド』はその中の一人でした。フェンドは、ドイツでジェット戦闘機を始めて開発したメッサーシュミット航空機製造工場で技師として働いていました。
技師や資格のある技術者達は占領国に捕虜として送られる可能性がありました。兵役から開放されたフェンド青年は故郷から離れて遠くに送られることを当然望まず、むしろ自ら農場で働くことを選びました。農場では農機具の修理に没頭しました。

農場での仕事はもちろん彼の技量や経験から言えば取るに足らない事でした。国内の状態が徐々に落ち着きを取り戻し安定してきた頃、フェンドは昔から持ち続けていたある構想を再び思い描いていました。

彼はある機械会社に技師として弟子入りしましたが、あいにく長くは続けられませんでした。再び技師として歩み始めたある日のこと、彼の父親が占領軍に召集された為にローゼンハイムにあった小さな店を閉めなければいけなくなったという知らせを受け取ったのです。
26才になったばかりのフェンドは、本当は熟練工としての仕事を続けて行きたかったのですが、彼の両親を手助けするために諦めなければいけませんでした。彼は両親の仕事を引き継ぐ為に会社をやめてローゼンハイムに移りました。
この頃彼は一晩中、ある新しい形の乗り物について思いを巡らしていました。

人々は自家用車を切に要望していたのですが、自動車産業はまだまだそれに応じれるような状況ではありませんでした。彼の構想していた乗り物は数年後には三輪車となっていました。しかしその乗り物は今迄の三輪車ではありませんでした。風雨から乗員を守る為のフードを付けることによって、どんな天候下でも使用可能な乗り物でした。

■人力三輪車の構想

「人力」で乗り物を動かすには2つの問題がありました。まず一つ目の問題は車重でした。一般的な三輪車と比べて、フードの重量を出来るだけ小さくする必要がありました。二つ目の問題はどんな勾配の道路でも走行可能であるという事でした。一般的な三輪車で丘に登っていて途中で動かなくなった場合には、単に車から降りて押せば良いのです。しかしフェンドの構想している完全にカバーされた車だとこういった事は出来ません。こういった場合でも乗車したままで走り続ける事が出来るように、フェンドはギアーシステムを考案しました。

現在ではこんなことは常識です。道路状況にあったギアーを選ぶことによって、私達は自由に自転車を走らせることが出来ます。

フェンドは昔のデーターは持っていませんでした。彼の乗り物に使うギアーシステムを設計する為には「人力」について新たに評価する必要がありました。

彼はいくつかの条件下で階段をかけ登るという実験を行いました。このような一種の拷問のような実験を行うことは、今では可笑しく感じられるかもしれません。いろんな種類の重りを持って、歩く早さや走る早さで、または1段づつや2〜3段づつと条件をいろいろ替えて階段を登る実験をくり返しました。彼はこの実験によって、三輪車に利用しようと考えているギアーシステムが、どのような効果を発揮するのかを知りたかったのです。一度に2〜3段づつかけ登るのは彼のギアシステムではハイ・ギアーに相当し、1段づつ登るのはロー・ギアーに相当しました。

階段は1段づつ駆け上がるほうが体力を消耗するという事も分かりました。フェンドはこれらの実験結果を集めて図表化し、考えうるギアー比を算出しました。また彼は、疲れずに推進力を得るためには、子供のペダルカーのように前方に配置された推進用ペダルをこぐような着座位置がもっとも良いという結論に達しました。体力を保ちかつ疲れさせない為に、身体の位置やペダルの取り付け場所などのテストがくり返されました。また座席の背もたれの角度は、垂直とリクライニングの中加減ぐらいが最適であるということも分かりました。

多くの研究の結果、ついに最初の車両を製作するという計画が持ち上がりました。

■人力三輪車『ザ・フリッツアー』の開発

彼が必要とした車両用の軽量素材はなかなか手に入りませんでした。しかし色々探したところやっと廃材で見つかりました。このような困難な状況下にもかかわらず、ついに彼は実験研究用のフルスケールの稼動モデルを作り上げました。このモデルは彼のコンセプトが実現可能であり、また手に入れやすい材料から簡単に製作出来るということを証明しました。彼はその車両を『ザ・フリッツアー』と名付けました。

1946年、フェンドは車両を製作する為の作業場を探していました。彼はローゼンハイムの工業地帯で古いホールを見つけ出し、そこに『技術開発製作所-フリッツM. フェンド』という看板を上げました。しかしまだ事業許可がおりていなかったので生産を開始することは出来ませんでした。また当時工具はとても高価な物でしたので、集めるのが大変でした。工具を購入するためにフェンドや彼の家族は宝石や高価な貴重品を売り払いました。大変高価だった旋盤もなんとか手に入れる事ができました。

彼は作業所の会社名にはかなり気を使いました。ドリームマシンの実験を続けていくためには十分な財力を保つ必要があったので、どんな種類の請け負い作業にでも応じることが出来るようにと苦慮した結果の命名でした。

車両を製作する為に必要な材料を入手するのはとても大変な事でしたが、幾らかの援助により、ついにプロトタイプのシャーシの実験が可能となりました。彼の考えに基づき、まずフレームとギアーシステムが組み立てられましたが、ステアリングシステムの組み立てである問題がおこりました。ステアリングが彼の予想とは反対の方向に駆動したのです。彼のような優秀な技術者がステアリングシステムの設計や製図の段階でこのようなトラブルの発生を予測出来なかったことは誠に不思議に感じられます。しかし、事前には予測困難な操縦装置を有する飛行機の製作現場で働いていたフェンドにとっては、このような事は試験走行で対処すればよいと考えていたのです。彼の考え出したペダルシステムを使う事によって、実験車両の巡航速度は25km/hに達しました。

1947年10月、彼が考案した荒れ地や坂道そして悪天候をものともせずに走破出来る三輪車は、ついにシャーシに載せる車体を製作する段階にありました。
車体の製作には運転者の負担にならないぐらい超軽量で、かつ十分な強度のある素材が必要でした。ボディー用の軽量鉄板が入出来ないということは重大な問題でした。現在ではごく普通に入手可能なプラスチックや風防用ガラス、高純度のアルミ素材さえも入手困難な状態でした。ここでもフェンドの発明の才が発揮されました。彼は古い新聞紙をニカワで張り合わせて固めて成型する事によってボディーを作り上げました。これは布地にワニスを塗って仕上げるのと同じような効果が得られました。しかしこの車体は天気の良い日にしか使えないことが分かりました。試しに雨天の日に走ると…紙が雨で濡れて溶け、ついに車体はバラバラになってしまいました。

軽量鉄板が入手困難の為、マシンの開発は当分の間中断することとなりました。

■起死回生となった『身障者用車両』の製作


まだ彼が簡単な臨時仕事に明け暮れしていた頃のことです。戦争で両足を失ったある男性が彼のところへやってきました。彼は車輪の付いたちっちゃな板切れの上に乗って移動していました。フェンドはその男性と同じような境遇の人々の為に、何か乗り物を作らなければいけないと直感しました。さらに彼は、もしクズ鉄から車両が作れて「傷痍軍人協会」の関心を得ることができれば、彼が切に必要としている素材を入手出来るかもしれないとも考えました。

このような投機に対しては、占領軍からの援助が十分に期待できました。『フリッツアー』の開発はとりあえずおあずけとして、彼は障害者の為の車両の開発に没頭することに決めました。しかしこの車両用の素材も入手が難しく、また素材を必要とする形に加工することも困難でした。わずかな材料が入手できましたが、そのままでは車体のデザインには合いませんでした。入手出来た素材はどれも真直ぐな板状であった為、加工する為の工作機械が必要だったのです。

彼が開発した三輪車フリッツアーのコンセプトに従って、車体の中心にドライバーシートが配置され、ドライバーの股の間にコントロールレバーがある小さな三輪自転車を設計、製作しました。

この車両の仕掛けは、ギアーを介して動輪と繋がったコントロールレバーを単に押したり引いたりすることによって車両を進める仕組みでした。またコントロールレバーは同時にハンドルの役目もしており、傾ける方向に舵をとることが出来ました。素材の欠乏は、大切な時間さえも消耗しました。たとえば車輪にあったタイヤを作る為には古タイヤから新たに切り出す必要がありました。

しかしついに、この車両は傷痍軍人協会の目にとまる事となりました。協会は大変な興味を示し、数カ月にわたって50台もの発注をしてきました。さらに彼は、なかなか手に入れる事の出来なかった素材をも入手するが出来る事になりました。かれはこの乗り物に『Disabled Driver's Vehicle 身障者用車両』と名付けました。

彼は傷痍軍人協会から1台につき200ドイツマルクを受け取りましたが、マルクの暴落の為に利潤は殆どなく、資金問題の解決には至りませんでした。しかし『身障者用車両』がかなりの成功を納めたことから、彼は傷痍軍人協会に対して新しいデザインの車両の提案をすることを思い付きました。
彼はオリジナルのペダルカー『フリッツアー』に風防をつけ、ステアリングレバーで前輪2本の舵取りをし、そのレバーを押したり引いたりすれば後輪1本を駆動させることが出来るようにアレンジしなおしました。

彼はこの改良型オリジナルペダルカーに乗って傷痍軍人協会の本部まで乗って行きました。この車両なら身障者を悪天候から守り、気軽に旅にも出かけることが出来るようになるというアイデアについて彼は協会本部で説明しました。また同時に車体の覆いによって、人の目を気にしなくても良くなるという心理的効果も十分に期待できました。
傷痍軍人協会は彼のアイデアに感銘を受け、さらなる援助を申し出て来ました。ついにフェンドは車両製作に必要な無加工のムクの素材を入手出来るようになりました。彼がプロトタイプを走行させたのは1948年の6月のことでした。その車両は本当に不思議な形をしており、まるで『車輪のついた飛行機のコックピット』のようでした。

ミュンヘンの労働省と労働大臣はこの車両に興味を示し、フェンドに『フリッツアー』を持参するように要請してきました。新しい身障者用車両を一目見ようと待ち構えていた労働省の役人達の前で、彼は車両の説明を行いました。沢山の役人達がこぞって試乗することが少し不安でした。もし車の運転に不慣れな者が試乗中にミスをおこしたら、せっかくのプロジェクトが無駄になる可能性があったからです。幸いにも全ては順調に進みました。役人達はとても感動して、さらに5台の追加注文が得られました。
この追加注文は、彼が以前から構想していた幾つかの計画を実行に移す好機ともなりました。さらに希望する素材は自由に手に入れる事が出来るようになり、これで廃材から製作しなくてもよくなりました。

■38ccエンジン付きの『フリッツアー』の誕生


その頃ドイツ経済はどんどん回復し、戦争の焼跡からまるで不死鳥のように甦りつつありました。

当時、小型エンジンを補助動力としたエンジン付自転車がさかんに作られていました。1948年秋、そのエンジン付き自転車のエンジンを『フリッツアー』に使うために、フェンドは38ccのVictoria-Hilfsmotorを1台購入しました。これはもちろん彼独自の発想でしたが、障害者であろうとなかろうと、だれもが当然人力よりもエンジンによる駆動を望んでいました。彼はその小型エンジンを自分の『フリッツアー』に組み付けてみました。始めてのテスト走行では40km/hも出ました。車体重量に対してとても小さなエンジンだったのですが本当に驚くべき速度が出ました。成功ではありましたが、しかし同時に幾つかの欠陥が見つかりました。このような速度に対してステアリングとサスペンションが十分に対応出来ないことが分かったのです。その為に再度設計図から書き直す必要がありました。

彼の小さな工房はすでに注文を受けていた5台の身障者用車両の製作で忙しくしていましたが、フェンド自身は最新式のエンジン付車両の開発に夢中になっていました。彼の夢の車両はまさに現実になろうとしていましたが、差し迫っての課題はエンジンを搭載する上での車体の不具合の解決でした。

街中で車両のテスト走行を行っていたら面白い事件がおこりました。彼の三輪自動車はドイツ国内の交通法規のいずれの車両にも当てはまらなかったのです。4輪の車ではないし、かと言ってエンジン付き自転車でもオートバイでもありませんでした。その為に警察官にとっては厄介で癪にさわる車両ではありましたが、フェンドはナンバープレート無しで街中を走り回ることが出来ました。

オリジナルの人力三輪車のラインナップにエンジン付きバージョンが新しく加わりました。本来の駆動用ハンドレバーはエンジンが故障した時の予備推進力ともなりました。当時使用していたエンジン付自転車のエンジンはとても貧弱でよく故障していました。

ある日のこと、思い掛けない幸運が訪れました。ある雑誌に『ローゼンハイムのフリッツアー』という特集記事が掲載されたのですが、記者が間違った内容の記事を掲載してしまいました。車両価格は900ドイツマルクとあっていたのですが、エンジンの排気量が38ccのところを380ccと書かれてしまったのです。これは雑誌の読者には素敵なバーゲンセールと思われたようで、新しい車両についての問い合わせの手紙が国中からフェンドの工房宛でどっと届きました。明らかに過った雑誌記事の内容に多くの読者が勘違いしたわけですが、このことが多くの人々に知られるという良い広告にもなったのでした。

■幸運な出来事で生まれた『フリッツアー100』


この幸運な出来事から、フェンドは車両により強力なエンジンを搭載する必要がある事に気付き、次のテスト車両の為に2.5P.S.のザックス製100ccのエンジンを入手しました。しかしすでに自転車タイプの車輪では高速走行は無理な状態でした。

1949年初旬、フェンドは新しい車両の生産を始めたかったのですが、小径のタイヤがまだ入手出来ていませんでした。再び試練の時が訪れましたが、彼は前輪に手押し車用の小径タイヤを流用することで対処しました。しかし、駆動輪となる後輪はまだ自転車タイプの車輪のままでした。多くの人々から要望のあった100ccエンジンを搭載した新しい車両『フリッツアー100』をテスト走行したところ、60km/hも出ました。

最初に生産された『フリッツアー100』はフランクフルト近郊に住む顧客が購入しました。フランクフルトへの道のりの途中には、ちょうどフリッツアーのエンジンを供給してくれていた会社がありました。フィヒテル&ザックス社は『フリッツアー』の事を評価し、特にエンジンがどのような使われ方をしているのかに興味を持っていました。そういうこともあって、彼等にフリッツアーを紹介するためにフェンド自身がフリッツアーに乗って会社を訪問しました。彼の訪問に技師長はとても感動し、直ちに提携が結ばれました。この提携関係は1964年にフェンドが最後の車両の生産を終了するまで続きました。

この始めての納車の際にある事実が判明しました。エンジンは強制空冷式ではありませんでした。冷却空気の取り入れ口はエンジンの前方にしかなかったので、十分な速度で走行している時には冷却効果がありました。しかし上り坂とかでスピードが落ちている時や、渋滞で車が動けない時には当然冷却効果は下がり、エンジンがオーバーヒートする恐れがありました。
もう一つの問題は自社生産の車両で、品質が不均一であったり精度が低いなどでした。例えばガス欠になって始めて、本来5リッターあるはずの燃料タンクが3リッターしかなかったことに気付いた…などでした。

一般的な車と比べて安価でかつ走行費用がかからないということが人気の原因だったようです。フリッツアーを道端に停めるとかならず興味を持った人々が群れをなして集まりました。ある時フェンドがフリッツアーの所に戻ってみると人垣が出来ていて、群れをかきわけて自分の車に近付こうとしたら文句を言われた程でした。ある力持ちの大男などは、車を持ち上げて車体の裏側を覗き込んだりしているしまつでした。

1949年4月、フェンドはフリッツアーの宣伝をする為に当時開催されていた技術博覧会へ参加することを思い付きました。残念なことにフリッツアーは会場内に展示することが出来ませんでした。そこで彼はフリッツアーを博覧会会場の玄関脇に駐車しました。すると車の周りにはたえず人垣が出来て、すぐに玄関口を塞いでしまいました。とうぜん警察官がやってきて車を移動させられました。今度は数百メーター離れた路上に停めているとまた人垣が出来て、迷惑だという理由で再び移動させられました。

■100ccのRiedel-Motorを搭載した『フリッツアー101』


この時点でフェンドは、フリッツアーをより進化させた改良型を開発する事を考えていました。フェンドは100ccで馬力が4.5P.S.にパワーアップされた最新型のRiedel-Zweitakt エンジンを手に入れました。しかし残念なことにこのエンジンも強制空冷式ではありませんでした。この結果フェンドは独自でエンジンに改良を加える事を決心しました。

しかし慢性的な資金不足の為に、プロトタイプは実験を目的とした本当に簡素な車両でした。実験用シャーシには新型のRiedelエンジンと車輪とサスペンション、そして座席とステアリングシステムが付いているだけでした。必須装置であるはずのチェンジレバーやサイレンサー、さらにはフェンダーやブレーキまでもが付いてませんでした。エンジンの始動はギアを繋いでおいての押しがけでした。エンジンが掛かるとフェンドは車へ飛び乗りました。車は動きだしましたが、もともとブレーキが付いてませんので当然ブレーキを掛けて車を止めるということは出来ませんでした。彼は革手袋をはめていましたので、もしエンジンを止めたければスパークプラグからコードを引っこ抜きさえすれば良かったのです。しかし…交差点などで他の車とかとぶつかる危険性がある事を考えれば、街中とかでなくどこか広くて安全な場所でテスト走行するのが普通だと思います。むちゃでふざけた行為に思われますが、フェンドにとってはただただ成功を目指して実験に熱中していたがための行為でした。

新型車両『フリッツアー101』の外観はほとんど仕上がり、あとは小径タイヤを供給してもらう為に英国のダンロップ社と契約を結ぶだけでした。小径タイヤは4.00×8で、三輪とも同じサイズでした。三輪ともに良質のタイヤを履かせることにより、サスペンションのレイアウトが改善され、さらに最高速度が70km/hまで出るようになりました。この新型フリッツアーでは今迄の2段式ギアから3段式ギアに変更されました。この変更により上り坂が楽になり、さらに街中ではしなやかに走行することが可能となりました。


ロードスタータイプには透明なフードが装着されました。この透明フードにはプラスチックチューブを膨らませた物が芯に入っていて、形が保たれていました。実験は一見大成功に見えましたが…車走が上がるにつれてチューブが風圧に耐えられなくなり、ペッチャンコになってドライバーの頭にくっつきました。

車両の性能を確かめる為にフェンドは荒れた道を走ってみたり、近隣の高山を登ってみました。これらのテスト走行はみごとに成功しました。フリッツアーで山を登っていたときのこと、途中でブレーキケーブルが切れるという事件が起こりました。しかしあいにく彼は予備のケーブルを持参していませんでした。さて、彼はどうやって下山したのでしょうか? フェンドの場合、方法は一つしかありません。彼は普通に車に乗り込むと、いつも通りに山を下りはじめました。普通この方法はとてつもなく危険な行為で、すぐに車はコントロールを失うと思われます。
彼はフリッツアーに飛び乗ると必死で操縦しました。幸運なことにフリッツアーは超軽量でした。彼は車外に足を投げ出した状態で車体にしがみつき、自らの足でブレーキをかけました。彼はどうにか山のふもとまで安全に下ることが出来ました。しかし…車のブレーキ替わりとなった彼の靴は使い物にならなくなりました。

■『フェンド・オートモービル有限会社』の設立

ローゼンハイムでのフリッツアーの生産は、一ヶ月に10台生産するのがやっとでした。これはなかなか良い商売だったのですが、しかしさらなる車両の開発を続ける為には資金が十分でありませんでした。増産する為にはもっと大きな工場が必要で、その為にはさらなる資金が必要でした。彼は新聞に事業の支援者をつのる広告を出しました。数名が援助を申し出てきましたが、しかしいざ出資金が必要となると彼等は手を引きがちでした。

後にある支援者が見つかりました。彼は自動車工業に対してはなんの知識もありませんでした。しかし彼は戦後始めての電気設備協会を創立しており、他の業種にも出資出来るだけの十分な資本を貯えていました。彼以外にも数名の支援者が1951〜52年の冬には見つかりました。フェンドは『フェンド・オートモービル有限会社』という名称で新しい会社を始めることが出来ました。しかし残念なことにこの新しいグループはフェンドにとってはあまり良い会社にはなりませんでした。彼は事業の改善とさらなる増産を行いたかったのですが、彼のパートナー達はひたすら利潤ばかりを追い求めたのです。会社はみかけは儲かって成功しているように見えましたが、実は倒産の危機にさらされていたのです。この時点で彼はある者から、会社を維持する為には元航空機会社のメッサーシュミット社とコンタクトを取るべきだとのアドバイスを受けていました。
フェンド・オートモービル有限会社には、すでにさらなる支援者は存在しませんでした。フェンドがパートナー達から会社を買い上げ、これを解散させるのが適切な状況となっていたのです。このようなことは現在では良くある事です。フェンドがこのような強硬手段に出たのは、きっとより大きな援助を受けたかったからでしょう。

■メッサーシュミット博士とフリッツ・フェンド

向って右から
フリッツ・フェンド、
ウィリー・メッサーシュミット博士、
ハンス技師長、

1952年1月、フェンドはフリッツアーのさらなる改良と発展を示した企画書を携え、戦時中は戦闘機の製造で有名だったリーゲンスブルクのメッサーシュミット社を訪れました。
戦時中フェンドはメッサーシュミット社の工場で働いていましたが、メッサーシュミット博士の航空機開発や改良のアイデアには大変感銘を受けました。しかし戦争や戦時中の暮らし向きなどから、その当時の仕事そのものにはあまり良い思いではありませんでした。フェンドは、その偉大な博士と向き合って新しい車のアイデアについて討論を交わしたのです。


メッサーシュミット社はもはや航空機の製造は出来ませんでした。その為に列車の修理や自転車部品の製造はもとより、ミシンの製造までしなければいけない状態でした。メッサーシュミット社の工場敷地内にはまだまだ空きスペースがあり、そこを埋める為にはなにか新しい事業を始める必要がありました。
6年ぶりにフェンドは博士と再開し、この新しい企画について討論しました。この新しい企画は…車両は2シーターでタンデムに配置され、プレキシグラスのフードが付いていて、出入りの際にはフードの片側を車体の側面から持ち上げる…という物でした。

博士はフェンドのこの企画に大変感銘を受け、1952年の初旬には提携が結ばれました。この提携は当初は大成功でした。
元々の1人乗りタイプの生産はメッサーシュミット社へ移されましたが、2人乗りの発展型の開発は引き続きフェンドがローゼンハイムの工場で行いました。

■フェンド・カビネンローラー『F.K.150』の誕生


1952年夏、フェンドと彼のチームは2人乗りの新型車両のプロトタイプを仕上げました。『フェンド・カビネンローラー(キャビンスクーター)』または『F.K.150』と呼ばれたこの車両には、高性能の150cc 6.5B.H.P.のフィヒテル&ザックス製エンジンが搭載されました。
この頃にはまだ吹製作や真空製作によるワンピースタイプのプレキシグラスを作る事が出来ませんでした。その結果幾つかに別れた透明部分をくっつけて一つのフードを製作していました。


海抜2,751mのGross-Glockner山脈で行われた新型モデルF.K.150の試験走行のレポートは、とても印象的な広告となりました。広告の内容は次のようなものでした。
『強制空冷システムによりオーバーヒートが無くなり、高山への登山も可能となりました。この新型車両があればアルプス縦断も、もう夢ではありません。この理想的な三輪自動車は、四輪自動車では高価すぎるし、かといってオートバイでは満足出来ないという人々にきっと気に入られることと思います。』

しかしこの新型車両には構造的な欠点がありました。この車両はセミオートマチック方式になっていて、クラッチとギアーチェンジは一本のレバーで操作する事になっていました。この新しいシステムは比較的簡単な構造だったのですが、しかし多くのガレージでトラブルに対処することが出来ず、修理の依頼が殺到しました。
1953年初旬にジュネーブでモーターショーが開催されましたが、この頃にF.K.150の生産モデルが始めて一般市民にも紹介されました。フェンドはF.K.150をこのモーターショーに出品しましたが、これは大変良い広告となりました。

■商業的な成功を納めた『K.R.175』の誕生


しばらくして、国際新聞に新型のメッサーシュミットK.R.175を2,100ドイツマルクで発売するという記事が掲載されました。記事では車両の特性として『オートバイと自動車の中間にある理想的な乗り物』と紹介されていました。
この新型車両の発売予告には、一般市民はもとより自動車業界や新聞社の人々も熱狂的な興味を示しました。また我々の間で有名なA.A.(Automobil Asociation)に相当する、A.D.A.C.(Allgemeiner Deutsche Automobil Club)が発行しているドライブマガジンには、『基本的構想は、確かに的を得ている。』と紹介されました。

K.R.175は人気が出て『白雪姫の棺桶』とか『チーズカバー』というニックネームさえ付けられました。また車に乗り込む時のドライバーの姿から『毒ヘビに飲み込まれる人』とまで呼ばれました。


工場では日に18台ほど生産されるようになりました。K.R.175は当時国内で生産されていた360CC以上の車の中でも主要モデルとなっていました。
K.R.175は国外でも広く販売されました。しかしイタリアは輸入制限の問題からそのままでは輸出販売することが出来ませんでした。そこでイタリア国内でライセンス生産するということでこの問題は解決されました。エンジンはMi-Val社で生産され、車両はMi-Val175という名称で販売されました。

生産コストの歩合や需要の安定などを考慮して、K.R.175の販売価格を2,100ドイツマルクから2,470ドイツマルクへ値上げしました。値上げするやいなや需要はいっぺんに減りました。暫くして値上げのショックが醒めると、新しい価格は人々から受け入れられたのか販売台数が再び増加してきました。会社側はさらに2,700ドイツマルクにまで値上げするつもりでしたが、さすがに今回の売り上げ減からさらなる値上げについては思いとどまる事となりました。

1954年、K.R.175は『Das Auto』誌のテストドライバーによって試乗されました。その結果「メーカーはこの車の弱点を改善する必要がある。」と評価されました。とくに目立った欠点の一つとしてキャビン内の激しい騒音と振動が上げられていました。
こういった欠点やその他の幾つかの弱点については、すでにフェンドは対策に取り組んでいました。セミオートマチック・トランスミッションはすでにもっとも一般的なトランスミッションへと変更されていました。トランスミッション型式の変更により、屋外での修理も簡単になりました。またより車らしくするために、バイクのようなキック式スタートをやめてダイノスタートが採用されました。始動方法は足元にあるフットスイッチを操作するだけで良くなりました。

■2スト2気筒エンジン搭載が予定されていたKR200


1954年の初旬、ボデイーがより流線形となり、よりパワフルなエンジンが搭載された新型車両K.R.200のプロトタイプが完成しました。この車両には200ccで2ストローク2シリンダーのRiedel製エンジンが搭載されていました。数々の新機軸が採用された新型車両は最高速が100km/hで、それでいて走行中は騒音も無く不快な振動も殆どありませんでした。この新型エンジンはリーゲンスブルク工場で生産する上でも都合がよかったのです。ところがRiedel社はフェンドが必要としているだけの台数のエンジンをすぐに供給することが出来なかったのです。そこでフェンドは急遽、必要分の200ccエンジンを直ぐにでも供給することが可能だったフィヒテル&ザックス社に無理をたのむこととなりました。フィヒテル&ザックス社のエンジンは1シリンダーであること以外には特に不利な条件はありませんでした。

■最高のキャビンスクーター、K.R.200の誕生


最新型K.R.200の3台は総走行距離が2万5千キロにも達するテストドライブが行われました。破壊寸前までテスト走行が行われたこれらの車両は、テスト終了時にはまるで泣叫ぶような音を発していました。しかし3台ともテスト走行に耐え抜いて生き残ることが出来ました。

今では、本来のモーターサイクルとしての特徴はほとんど分からなくなり、車として望まれる特徴を持ち合わせるようになっていました。流線形のボディーはかなりスマートな外観を持ち、そして幾つかの新しい装飾が加えられた内装は最高の乗り心地と運転しやすい環境を与えていました。
エンジンをラバーマウントとし、後輪のチェーンケースを完全に密閉することにより、騒音と振動を減らすことが出来ました。そして前輪の車輪幅を150mm広げることにより素晴らしい安定感も生まれました。


前進ギヤーは後進ギヤーの役割もはたしています。いったんエンジンを切ったら今度はエンジンを逆回転でスタートさせるのです。まるでジョークのようですが、この車は唯一後進も4段変速なのです。

ガソリンタンクの増量、そしてステアリングハンドルに付いていたグリップコントロール式のアクセルを足踏み式に変更したこと等は、あきらかに有利なことでした。また特別オプションとして、ラジオ、外装
に合わせた内装色、スキーラック、時計、いろんな色のフロアーマット、ラゲッジラック等が用意されていました。これらの仕様の追加や特別装備はドライバーはもとよりパッセンジャーにとっても心地よい居住空間を提供することになりました。

再び雑誌にインプレッション・レポートが掲載されました。レポーターはK.R.200のことを「普段の足となるジェット機、K.R.200はエンジンとシャーシが絶妙のバランスでかつ求めやすい価格のすばらしい車である。」と評しました。

1955年頃になると、市場はフェンドが過去に作っていたのと同じような安価なちいさい車であふれかえっていました。しかし、フェンドの作った車の売れ行きはそれらの車を圧倒していました。
この当時の初期の広告手段としては、キーリングを配ったり、「セールス・ジングル」と呼ばれるショートソングを流したりしていましたが、たいした効果は期待されませんでした。

しかしAuto Motor Sports誌に掲載された記事はとても広告効果がありました。「ほとんど哀れみの意味で呼ばれてきたキャビンスクーターという車は、今では他の2シーターの小型自動車と競べてもなんら遜色のないほど完璧な車へと進化しました。しかもそれらの車と比べて遥かに経済的です。」
いまや競合相手についてはなんら心配はありませんでした。K.R.200は以前にも増して売れ行きは好調でした。1955年の1年間にリーゲンスブルグの工場から出荷されたK.R.200の台数は、過去2年間に生産されたK.R.175の総生産数を遥かに超えていました。


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